――愛美がこの手紙を出してから二ヶ月半が経過した。けれど、〝あしながおじさん〟からも純也さんからも、未だ何の音沙汰もない。(今回はさすがに、「何言ってもムダだ」って諦めたのかな) そう思っていた七月の初旬。この日は短縮授業期間中だったので、午前の授業が終わった愛美が寮の郵便受けを覗いてみると――。「…………えっ? 久留島さんから何か来てる」 〝あしながおじさん〟の秘書・久留島さんから一通の封書が届いていた。それも、封筒には相当な厚みが。(あの手紙の返事かな? それにしては、こんなに分厚いのが謎だけど)「愛美、どうかした? ……その封筒は?」「あら、何かしらね。何だか分厚いみたいだけど。出版社から?」 封筒を手に、リアクションに困っている愛美に、さやかと珠莉が声をかけてきた。「ううん、おじさまの秘書の人から……なんだけど。なんでこんなに分厚いんだろ?」「部屋に帰ってから開けてみ? 中身、手紙だけじゃなさそうだし」「うん」 ――昼食を済ませ、部屋に帰ってから開けてみると、中にはいつものようにパソコン書きの手紙と何かのチケット、そして何やらパンフレットのようなものが同封されている。「これは……、クルーズ船のチケットとパンフレット……? どういうこと?」 ますますわけが分からず、首を捻った愛美は手紙を読んでみた。****『相川愛美様 今年の夏休みには、一ヶ月間泊まり込みで家庭教師のアルバイトをなさると伺いました。 ですが、ボスはアルバイトに賛成しておりません。夏休みにはのんびり過ごして頂きたいとお望みでございます。 同封のチケットとパンフレットは、一ヶ月間で世界の各地を周遊するクルーズ船のツアーのものでございます。ぜひ、ご参加下さいませ。料金はすべてボスが負担致します。 久留島 栄吉』****
「…………やっぱりこう来たか」 想定通りの展開に、愛美は頭を抱えた。これじゃ、『あしながおじさん』の物語とほとんど同じではないか!(純也さん……、もうちょっと捻ってもよかったんじゃないの? これじゃいくら何でもあからさま過ぎでしょ)「愛美、〝やっぱり〟って何が?」「あー……、えっと。『あしながおじさん』のお話の中にも、これと似たようなシチュエーションが出てくるの。ジュディが夏休みに家庭教師の仕事をするって手紙で報告したら、〝あしながおじさん〟が彼女に旅行に参加することを勧めるんだけど。ジュディがそれを断ろうと思って手紙を書いてる時に……、これ以上はちょっとネタバレになるから詳しくは言えないけど」「「…………なるほど」」 愛美の説明に、親友二人は頷いた。彼女たちは『あしながおじさん』の本を読んだことがないけれど、だいたいの事情は理解できたらしい。愛美にとっての〝あしながおじさん〟は純也さんだと、二人とも知っているから。「つまり、純也さんは家庭教師のバイトには反対で、多分愛美と一緒に旅行したくてこんなものを送ってきたってことか。自分もこのクルーズ船に乗るから、とか何とか言って」「純也叔父さま、やることがあからさま過ぎるわ」 まあ、実際に送ってきたのは久留島さんだけれど、純也さんの命令でしたのだから強(あなが)ち間違ってはいないだろう。「ホントだよね。でもわたし、船旅よりバイトを取るよ。もう引き受けちゃったもん、ドタキャンするなんてあり得ないから」「エラいっ! よく言った、愛美!」「やっぱり愛美さんは、意志が固くて立派でいらっしゃるわ。それでこそ愛美さんよ」 そうと決まれば、この船旅を断ると〝あしながおじさん〟に知らせなければ!「だよね。というわけでわたし、おじさまに手紙書くよ!」
****『拝啓、おじさま。 今日、秘書の久留島さんからの封書を受け取りました。 クルーズ船のツアー自体はすごく魅力的なお誘いで、こんな形で行くことを勧められなければ、わたしも参加を決めてたと思います。 でも、今回の返事は「No!」です。バイトはダメ、その代わりに旅行に行けなんて、そんなの筋が通るわけがありません! おじさまはきっと、わたしが奨学金を受けることになって浮いてしまった分の学費や寮費を、別の形でわたしのための何かに使いたかったんでしょう。その気持ちはすごく嬉しいし、その厚意は受け取らないと恩人であるおじさまにも申し訳ないと思うべきなんでしょう。 でもね、こんなやり方は違うと思う。もっと別の使い道もあると思います。だって、わたしが今、本当の意味で自立しようとしてるところなのに、それをジャマするのは保護者として間違ってると思うから。 生意気なことを言ってるのは自分でも分かってます。でも、こんな甘え方は間違ってるとわたしは思う。本来、学費として投資してたはずのお金を娯楽に使うのは、どう考えたって感覚がズレてるから。 それにね、わたし、おじさまに出してもらったお金は将来、全額返そうと思ってるから。今は奨学金のおかげでその金額が半分になって、ちょっと気が楽だなって思ってるところなの。娯楽のために使われるお金については、返済の対象外になりますけど、それでも大丈夫ですか? えーっと、何を言おうとしてたんだっけ? あ、そうそう! わたし、バイトの話はもう引き受けちゃったので、今さら「やっぱりできません」なんて言えません。わたしの信用に関わるから。 とにかく、今回のバイトのことはわたしが自立するための大きな一歩なので、おじさまには保護者として見守っててほしいです。』****
――と、ここまで書いたところで、愛美のスマホに純也さんからのメッセージが受信した。『今、寮のすぐ近くまで来てる。 これから会って話せないかな?』「…………えぇっ!?」 これまた『あしながおじさん』の物語通りの展開に、愛美はげんなりした。「……仕方ない。会いに行くかぁ」 ため息をつき、急いで返信した。『分かった。 それじゃ、一昨年の五月にお茶したカフェで待ってて。今から行きます。』「――愛美ちゃん、こっちこっち!」 愛美がカフェの店内に入っていくと、窓際のテーブルから純也さんが手を振ってくれた。 今日の彼は、ノーネクタイだけれどベージュのスーツ姿だ。多分、仕事中にわざわざ横浜まで車を飛ばしてきたんだろう。「いらっしゃいませ。ご注文は?」「ケーキセットを下さい。チョコレートケーキで、飲み物はストレートの紅茶で」 お冷やを持ってきてくれた女性のホールスタッフさんに、愛美はメニューも見ないで注文した。 純也さんもケーキセットを注文していたようで、テーブルには食べかけのいちごショートケーキのお皿があり、コーヒーを飲んでいる。「――で、話ってなに?」 グラスのお冷やをガブリと半分ほど飲んだ愛美は、自分から本題に切り込む。「おいおい、つれないなぁ。せっかく彼氏が会いに来たっていうのに」「わざわざそんな世間話をしに、横浜まで来たわけじゃないでしょ? ――もしかして、わたしが夏休みにバイトすることと関係ある?」 愛美はあえて、家庭教師のバイトの話を純也さんには伝えていなかったのだけれど。カマをかけてみると、彼がビクッとなった。「あ……、ああ。田中さんから聞いた。でも、彼は賛成してないみたいでね、愛美ちゃんにクルーズ船のツアーへの参加を勧めたって言ってたけど」(よく言うよ、白々しい! 『一緒に旅行したい』ってハッキリ言えないの? この人は) 愛美は内心そう毒づいたけれど、口に出しては言わずに別のことを言った。「うん。今日、秘書の人からこのチケットとパンフレットが送られてきたの。でも、わたしは船旅には行かないよ。もうバイトは引き受けた後だから、今さら断れないもん」「俺もそのクルーズ船に乗る、って言っても?」「……何それ? それで引き留めてるつもり? 純也さんもバイトには反対なんだね」 純也さん〝も〟と言ったのは、彼があくまで「田中
「ハッキリ反対とは言えないけど、俺も賛成はできないかな。君は自分を追い込みすぎてるように俺には見える。作家の仕事だってあるのに、どうしてバイトまでしなきゃならないんだ? お金に困ってるわけじゃないだろ」「別に、今回のことはお金が欲しくてやるって決めたわけじゃないよ。わたしを必要としてる人がいるから、それに応えたいって思うだけ。それに、ちゃんと作家業だって並行してやるし、それなら問題ないでしょ?」「それにしたって、俺は心配なんだよ。せめて一言相談してくれてたら、俺だって賛成してたよ。……正直、一緒に船旅を楽しみたかったのもあるけど。……確かに、十八歳は法律上は成人だ。選挙権もあるし、クレジットカードだって申請できる。けど、バイトをするにはやっぱり保護者にひとこと相談すべきだと――あ」(純也さん、今、ボロが出たことに気づいたな) 彼が一瞬「しまった!」と顔をしかめたのを、愛美は見逃さなかった。 ちょうどいいタイミングでケーキと紅茶が運ばれてきたので、愛美はチョコレートケーキと紅茶を一口ずつ味わってから再び口を開いた。ちなみに、伝票は純也さんの分と別になっている。「純也さんはわたしの保護者じゃないよね。――それはともかく、わたし、来年はもう大学生になるの。だから、早く自立したい。純也さんに釣り合うような、自立した女性になりたいの。今度のバイトはそのための第一歩でもあるってわたしは思ってる。それでも賛成できない?」「ああ、賛成できないね。どうして素直に甘えられないのかな、君は。今度の船旅だって、田中さんがいつも頑張ってる君に息抜きをさせてあげたくて提案したはずだ。その厚意も無下にするのか? 自立自立って、ただ意固地になってるだけじゃないか。自立心の強すぎる頑固なガキは始末に負えないよ」「ガキで悪ぅございましたねえ! だいたい、意固地なのはどっちよ? 自分の彼女が自立したいって言ってるのに、それがいけないことなの!? 一体、それの何が気に入らないの!?」 愛美だって、大好きな純也さんにこんなことを言いたくはなかったけれど、もう売り言葉に買い言葉だ。「…………あ~もう! 分かったよ! 勝手にしろよ! 俺はもう知らない!」「ええ、ええ、勝手にしますっ! もう話終わったならさっさと帰れば!? 自分の分くらい、自分で払うから!」「分かったよ、帰るよ!」 純
****『――と、ここまで書いた時に純也さんから『会って話したい』ってメッセージが来て、いつかのカフェで会うことになりました。 純也さんもわたしのバイトには賛成できないって。で、おじさまがわたしに勧めてくれたクルーズ船に自分も乗るから一緒に旅行しようって言われました。 でも、わたしは断りました。バイトの方が大事だし、引き受けたものは断れないから、って。早く自立したいから、この夏のバイトはそのための第一歩なんだとも言いました。 そしたら彼、何て言ったと思う? 「どうして素直に甘えられないんだ」って。おじさまはいつも頑張ってるわたしに息抜きをさせたいから船旅を提案してくれたのに、その厚意も無下にするのか、って。最後には、自立心の強すぎる頑固なガキは手に負えないって! わたしも売り言葉に買い言葉で、「自分の彼女が自立したいって言ってることの何が気に入らないの!?」って言い返してやりました。だって、言われっぱなしじゃムカつくんだもん! そしたら彼、「もう勝手にしろ。俺はもう知らない」って怒って帰っちゃいました。 というわけで、わたしも勝手にします。夏休み前にさっさと荷造りを済ませて、終業式が終わったら葉山に行っちゃいますから。葉山への行き方はさやかちゃんに教えてもらうし、分からなくなったらネットで調べます。 おじさまのご厚意を無下にしたことは申し訳ないと思ってます。でも、純也さんのことは許せない。しばらくはメッセージも既読スルーしてやるんだから! かしこ七月八日 自立心の強い頑固ものの愛美』****
――こうして始まった、高校最後の夏休み。愛美は純也さんとケンカ中のままで、葉山にある秦(はた)野(の)さん宅でバリバリ家庭教師のアルバイトに励んでいた。今日で四日目である。「――麻利絵(まりえ)ちゃん、この問題、当てはめる公式が間違ってるよ。もう一回最初からやり直してみようか」「え~~!? 面倒くさい! 愛美先生、もう休憩しようよー」「ダメ。この問題を解き直してからね」 仕事は主に、受験生であるこの家の長女・麻利絵の勉強を見てあげることなのだけれど。彼女の一学期の通知表を見せてもらったところ、今の成績では志望校合格は厳しいように思えた。 麻利絵は第一志望が私立高校なのだけれど、それでもギリギリ受かるかどうかというところ。愛美の指導に熱が入るのも致し方ないことだった。「……で、香菜(かな)ちゃん。今書いてもらった英文、文法がおかしいから。助動詞の使い方に気をつけてもう一回書き直してみて」「はーい」 そして、現在中学一年生の次女・香菜も数学と英語の成績があまりよくないので、そちらも見てあげなければならない。 この二人の学習意欲が低いことは、前もってさやかと秦野夫人から聞かされていた愛美だけれど、まさかここまで勉強嫌いだったとは……。(引き受けたのがわたしでよかったかも。さやかちゃんが引き受けてたら、もうとっくにサジ投げてただろうな) 根が真面目で努力家で、働くのが好きな愛美だから、この姉妹の家庭教師が務まっているのだ。現に、愛美以前に来た家庭教師は三日ともたずに辞めていったそうだし。(バイトと原稿を書くのに打ち込んでいられる間は純也さんのこと思い出さなくて済むし、わたしも実は助かってるんだよね) あのケンカ別れからずっと、純也さんからは電話もメッセージもウンともスンとも言ってこなくなった。だから彼が今どこで何をしているのか、あのクルーズ船に乗っているのかいないのかまったくもって分からない。……もっとも、気になってもいないし、愛美からも連絡するつもりはないけれど。(もしかして、わたしが手紙に「純也さんからメッセージが来ても既読スルーしてやる」って書いたから、向こうも意地になってるとか?) 本当にガキはどっちよ、と愛美は思う。あれだけ愛美のことを「意固地だ」「頑固なガキだ」と罵倒したくせに、やっていることは彼の方が子供っぽいというか大人げな
* * * * ――バイトの時間は午前中だけで、昼食後は自由時間となる。 愛美は自分の部屋で、姉妹の生徒たちに出した課題の添削をしていた。「……う~ん、二人共通の課題は読解力不足かな」 麻利絵と香菜、二人はどうして勉強ができないのか。どうすれば成績が上がるのか。その原因を探っていたのだけれど、何となく分かった気がする。 麻利絵も香菜も、基本的に問題を読み解く力が弱い。だから理解が追いつかないのだ。 では、どうしたら読解力が身につくのか――?「本を読むのがいちばんのトレーニングになるんだけど。あの二人、本なんか読まなそうだしなぁ……」 二人ともいわゆるギャル系で、オシャレやメイクなど自分の興味のあることには熱心だけれど、本は雑誌くらいしか読んでいるところを見たことがない。勉強中の休憩時間には、スマホを見ていることがほとんどだ。「せめて電子書籍でもいいんだけど、本はやっぱり紙書籍を読んでほしいなぁ」 紙の本のページをめくる動作だけで、脳は活性化されるらしい。この際、コミック本でもいいから勧めてみるべきだろうか? ――と考えに耽っていると、部屋のドアがノックされた。「――愛美先生、外いい天気だし、散歩行かない?」 ドアを開けると廊下に麻利絵と香菜の美少女姉妹が立っていて、愛美を散歩に誘いに来たらしい。「うん、行こう。この近くのカフェで、二人にクリームソーダごちそうしてあげるよ」「やったー! お姉ちゃん、愛美先生誘ってよかったね」「うん!」 というわけで、愛美は二人の生徒を引き連れて、秦野邸の近くにあるカフェで課外授業をすることにした。 * * * *「「――いただきま~す♪」」 麻利絵と香菜の姉妹がクリームソーダを美味しそうに食べ始めるのを、愛美はいちごタルトセットのアイスティーを飲みながら眺めていたけれど。先生の顔になって課外授業を始めた。「麻利絵ちゃん、香菜ちゃん。食べながらでいいから聞いて。――わたし、二人の課題に目を通して分かったんだけど、二人に共通して足りないのはズバリ、読解力だと思うの」「読解力?」「そう。問題を読み解く力。二人にはそれが欠けてるの。そこでわたしから質問なんだけど、二人って本を読むの苦手でしょ?」 姉妹は顔を見合わせた後、同時にコクンと頷いた。
「……お二人とも、聞こえてるんだけど」「あっ、ゴメン!」「こっちの話は気にしないで、読む方に集中して?」 さやかと愛美が謝り、そう言うと、珠莉はひとつため息をついた後にまた画面に視線を戻した。「集中して」と言ったって、ムリな話ではあると思うのだけれど――。 ――それから一時間ほど後。「愛美さん、読み終わりましたわよ」 珠莉がパソコンの画面を閉じて、愛美に声をかけてきた。「えっ、もう読んだの!? 早かったね」 あの小説は原稿用紙三百枚分ほどの長さがあるので、じっくり読み進めると読み終えるまで二時間以上はかかるはずだ。ということは、珠莉は読むスピードを速めたということになる。「ええ、愛美さんが私からのアドバイスを待ってると思って、急いで読んだのよ。――それでね、愛美さん。この小説で私が感じたことなんだけど」「うん。どんなことでも大丈夫だから、忌憚なく言って」「じゃあ、述べさせてもらうわね。――私の感じたことを率直に言わせてもらうと、やっぱりこの小説の中からは、あなたのセレブに対する苦手意識というか偏見というか、そういうものが読み取れたの。出版に至らなかった理由はそこなんじゃないかしら」「あー、やっぱりそうか。編集者さんからも同じこと言われたんだ」 書籍として流通するということは、この小説が多くの人の目に触れるということだ。読んだ人の中には気分を害する人も出てくるかもしれない。プロとして、そういう内容の本を世に送り出すわけにはいかないと判断されたのだろう。 もしこの小説を珠莉ではなく、純也さんに読んでもらったとしても、きっと同じことを言われたに違いない。「『出版できない』って聞かされた時はショックだったけど、これで納得できたよ。ありがとね、珠莉ちゃん」 これで、初めての挫折からはすっかり立ち直ることができそうだ。愛美はもう前を向いていた。「いえいえ、私でお役に立ててよかったわ。でもあなた、思ったより落ち込んでいないみたいね」「そういやそうだよねー。『ヘコんだ」って言ったわりにはけっこう前向いてるっていうか」「うん。もうわたしの意識は次回作に向いてるから。いつまでも落ち込んでられないもん」 二年前の愛美なら、いつまでもウジウジ悩んでいただろう。でも、もうネガティブな愛美はいない。純也さんに釣り合うよう、いつでも自分を誇れる人間でいた
「ええ、いいわよ。私でよければ。とりあえず着替えさせてもらうわね。それからでもいいかしら?」「あ、うん。もちろんだよ。ありがと。なんかゴメンね、帰ってきたばっかりなのに」「いいのよ、愛美さん。謝らなくてもよくてよ」「ありがとねー、珠莉。アンタと愛美、すっかり仲良くなったよね。最初の頃はさぁ、愛美に『叔父さま盗(と)られた~!』とか言ってたのに」 さやかは二年以上も前の話を持ち出して、二人の関係がすっかり変わったことに感心している。あれはこの高校に入学した翌月で、純也さんが初めて学校を訪ねてきた時のことだ。 それに対して、珠莉が制服から私服に着替えながら答える。「あの頃はまだ、純也叔父さまが愛美さんのいう〝あしながおじさま〟の正体で、お二人が恋人同士になるなんて思ってもみなかったもの。本当に、人生って何が起こるか分からないものよね」「うん……、ホントにね」 珠莉の最後のセリフに愛美も頷いた。純也さんが〈わかば園〉の理事をしていなければ、理事であったとしても愛美の学費を援助すると申し出てくれなければ、彼女は今この場にいなかったのだ。山梨県内の公立高校で、悶々とした高校生活を送っていただろう。もしくはどこかの温泉旅館で住み込みの仲居さんとして働いていたとか。「――はい、お待たせ。着替え終わったから原稿を読ませてもらうわ。データは残してあるのね?」「うん。わたしのPCのデスクトップと、一応USBにも保存してあるよ。待ってね、今ファイル開くから」 愛美は自分のノートパソコンで、ボツになった原稿のファイルを開いた。「これがその小説だよ」「分かったわ。じゃあ、ちょっと失礼して」 珠莉は愛美に場所を譲ってもらい、ブルーライトカットのためにPC用の眼鏡(メガネ)をかけて小説の原稿を読み進めていった。「……珠莉ちゃんって普段は眼鏡かけないけど、たまにかけるとすごく知的に見えるよね」「顔立ちのせいなんじゃない? あたしが眼鏡かけてもああはならないよ。あたし、上向きの団子っ鼻だからさ」 珠莉が真剣な眼差しで原稿を読み進める傍(はた)で、愛美とさやかはヒソヒソと彼女の意外なギャップを発見して盛り上がっていた。愛美に至っては、彼女の頼みごとをした本人だというのに……。
「あ、愛美。おかえり。――どうした? なんかちょっと元気ないじゃん?」「うん……。さやかちゃん、鋭い。ちょっとね、ヘコんじゃう出来事があって」「もう友だちになって三年目だよ? 元気がないのは見りゃ分かるって。今日は編集者さんと会ってたんだっけ。じゃあ、作家の仕事絡み?」「正解。詳しい話は珠莉ちゃんが帰ってきてからするけど、長編の原稿がボツ食らっちゃってね」「えっ、ボツ!? 長編ってあれでしょ、冬からずっと頑張って書いてて、夏休みの間に書き上げたっていう、純也さんが主人公のモデルだった」「うん、そうなの。あれ」 さやかがズバリ、どんな作品だったか言い当てて愛美も頷いたけれど、さすがに純也さんが主人公のモデルだったという情報まで言う必要はあっただろうか?「う~ん、そっかぁ……。珠莉、部活は五時までだったと思うから。帰ってきたら一緒に話聞いてもらおう。珠莉の方が、あの小説のどこがダメだったか分かると思うんだ」「そうだね。わたしもそう思ってた」 一応は社長の娘だけれど庶民的なさやかより、生まれながら名家のお嬢さまである珠莉の方が、ダメ出しのポイントが適格だと思う。何せ、モデルは彼女の血の繋がった叔父なのだから。 それから三十分ほどして、部活を終えた珠莉が部屋に帰ってきた。「――ただいま戻りました」「珠莉ちゃん、おかえり。部活お疲れさま」「珠莉、おかえりー。何かさあ、愛美が聞いてほしい話があるんだって」 珠莉がクローゼットにスクールバッグをしまうのを待ってから、二人は彼女に声をかけた。 彼女は最近、週末は雑誌の撮影で忙しいけれど、平日の放課後はまだ部活があるので撮影は入っていないらしい。こちらも学業優先なのだ。「――愛美さん、私に聞いてほしい話ってなぁに?」「えっと、わたしが冬休みから長編小説を書いてたこと、珠莉ちゃんも知ってるよね? ……純也さんが主人公のモデルの」「ええ、知ってるわよ。夏休みの間に書き上がって、編集者さんにデータを送ったらしいってさやかさんから聞いたけど。あれがどうかして?」「実はね、あの小説、ボツになっちゃったの。今日、編集者さんから『あれは出版されないことになった』って聞いて。でね、どういうところがダメだったのか、珠莉ちゃんに読んで指摘してもらえたらな、って思ったんだけど……」 珠莉はプロの編集者ではないので、
「――そうだ! 次回作は〈わかば園〉のことを題材にして書こう」 自分が育ってきた、よく知っている場所のことなら書いていてリアリティーもあるし、作品に説得力を持たせることもできる。当然のことながら、主人公のモデルは愛美自身だ。「よし、次回作はこれで決定! 今年の冬休み、久しぶりに〈わかば園〉に帰って園長先生とか他の先生たちに話聞かせてもらおう」 愛美の記憶にあることはまだいいけれど、憶えていない幼い頃のことや、愛美が施設にやってきた時のことは園長先生から話を聞かなければ分からない。――それに、愛美の両親のことも。(わたし、お父さんとお母さんが小学校の先生で、事故で亡くなったってことしか知らないんだよね。どんな両親で、どんな事故で命を落としたのか知りたいな) 施設で暮らしていた頃は、まだ幼くて話しても分からないから教えてくれなかったんだろう。でも、愛美も十八歳になって、世間では一応〝大人〟なのだ。今ならどんな話を聞かされても理解できると思う。それがたとえどんなに残酷な話でも、聞く覚悟はできているつもりだ。「……うん、大丈夫。わたしはもう大人なんだから、どんな話を聞いても怖くない」 愛美は決意を新たにしたことで、自身の初めての挫折とも向き合うことを決めた。「今回ボツになったこと、報告しないわけにはいかないよね……」 もちろん〝あしながおじさん〟に、である。ガッカリされるかもしれない。けれど、失望はされないと思う。だって、純也さんはそんなに冷たい人ではないから。「でも、慰められるのもまたツラいんだよね。そこのところは手紙で一応釘を刺しとくか」 部屋に帰ったら〝おじさま〟宛てに手紙を書こう。そう決めて、愛美は寮の玄関をくぐった。「――相川さん、おかえりなさい」「ただいま戻りました。あ~、晴美さんとこうして話せるのもあと半年足らずかと思うと淋しいです」 寮母の晴美さんと挨拶を交わせるのも、高校卒業までだ。大学に進めば寮を変わらなければならないので、当然寮母さんも違う人になる。「私も淋しい~! でも、寮母として寮生の巣立ちを送り出さなきゃいけないから。毎年淋しく思いながら、断腸の思いでそうしてるのよ」「そうなんですね。あと半年、よろしくお願いします」 晴美さんにペコッと頭を下げてから、愛美はエレベーターで四階へ上がった。角部屋の四〇一号室が、三
「……あの、ボツになった理由は?」「あの作品、セレブの世界を描いてますよね? その描写が不十分というか、かなり不適切な描写があったと。先生個人の偏見のようなものが含まれていたようなんです」「ああ~、そう……ですよね。わたし、実は一部の人たちを除いてセレブの人たちって苦手で。冬休み、セレブのお友だちの家で過ごしていた時に色々と取材したんですけど。その時もあまりいい印象は持てなかったです」 純也さんとデートした日のこと以外にも、愛美はあの家に出入りしている富裕層の人たちを観察したり、クリスマスパーティーの時に感じたことも小説の中に織り込んでいた。多分、それが原因だろう。「なるほど……。冬休みといえば二週間くらいですか。富裕層の人たちのことを正しく描写しようと思えば、その程度の日数では足りなかったんでしょう」「ですよね……」 愛美はすっかりヘコんでしまい、大きくため息をついた。(わたしってホントは才能ないのかな……。純也さんの買い被りすぎ? だったら、彼にムダなお金使わせちゃっただけかも)「先生、そんなに落胆しないで。今回は残念な結果でしたけど、次回作でいい作品をお書きになればいいんです。先生はまだ高校生ですし、先生の作家人生はまだ始まったばかりなんですから。焦らず、じっくりといい作品を送り出していきましょう。僕も協力を惜しみませんから」「はい……、そうですね。次回作は頑張ってみます」 ――愛美持ちで会計を済ませて岡部さんと別れた後、愛美は自分でも悪かったところを反省してみた。(岡部さんに原稿を送る前に、珠莉ちゃんにデータを送って読んでもらえばよかったかな。珠莉ちゃんなら何か的確なアドバイスをくれたかも) 愛美にとっていちばん身近なセレブが珠莉である。彼女に最初の読者になってもらえば、「ここがよくない」とか「ここはこういう書き方の方がいい」とか助言してもらえて、もっといい作品になったはず。そうすればボツを食らうこともなかったかもしれない。(……まあ、〝たられば〟言いだしたらキリがないし、もう終わったことだからどうしようもないんだけど) 済んでしまったことを悔やむより、前に進むことを考えなければ。「次回作……、どうしようかな」 寮への帰り道、悩みながら歩いていた愛美の頭を不意によぎったのは、彼女が中学卒業まで育ってきたあの場所のことだっ
* * * * それから数週間後の放課後。この日は文芸部の活動はお休みだったので、短編集のゲラの誤字・脱字などのチェックを終えた愛美は学校の最寄駅前にあるカフェに担当編集者の岡部さんを呼び出した。「――はい。相川先生、お疲れさまでした。これでこの短編集『令和日本のジュディ・アボットより』は無事に発売される運びとなります」「よろしくお願いします。わたしも発売日が待ち遠しいです」 愛美は確認を終えたゲラを大判の封筒に入れる岡部さんに、改めてペコリと頭を下げた。 ゲラの誤字や脱字を赤ペンで修正していく作業は初めてだったけれど、思いのほか少なかったので楽しくこなすことができた。あとは一ヶ月後、本屋さんの店頭に並ぶ日を待つだけだ。(純也さん、聡美園長とか施設の先生たちにも宣伝してくれたかな。もちろん自分では買って読んでくれるだろうけど) 彼は〈わかば園〉を援助してくれている理事の一人でもあり、あの施設の関係者で愛美の書いた本がもうじき発売されることを前もって知っているのも彼だけなのだ。彼ならきっと、園長先生にはそれとなく報告しているだろうけれど。 (どうせなら、立て続けに二冊発売される方が園長先生や他の先生たちも、もちろん純也さんも喜んでくれるだろうな……)「――ところで岡部さん、わたしの長編の方はどうなりました? データを送ってから一ヶ月以上経ってると思うんですけど」 そろそろ出版するかどうかの決定が下される頃だろうと思い、愛美は岡部さんに訊ねてみたのだけれど……。「…………すみません、先生。それがですね……、あの作品は残念ながら出版できないということになってしまいまして。つまり、ボツということです」「えっ? ボツ……ですか」 彼の返事を聞いて、愛美は目の前が真っ暗になった気がした。岡部さんはあれだけ作品を褒めてくれたのに、熱心にアドバイスまでくれて、書き上がった時にはものすごく喜んでくれたのに……。(なのに……ボツなんて)「だって、岡部さん言ってたじゃないですか。『これは間違いなく出版されるはずです』って」「いえ、僕はあの作品を気に入ってたんですけど……、上が『ダメだ』というもので。僕も本当に残念だとは思ってるんですが、まぁそそういう次第でして」「そんな……」 岡部さんもガッカリしているのだと分かったのがせめてもの救いだけれど
彼も反省してたんだって知って、わたしは彼を許してあげることにしました。やっぱり彼のことが好きだから、仲違いしたままでいるのはつらかったの。仲直りできてよかったって思ったのと同時に、どうしてもっと早くできなかったんだろうとも思いました。フタを開けてみたら、こんなに簡単なことだったのに。 純也さんに、この秋に発売されることが決まってる短編集の売り込みもバッチリしておきました(笑) わたしが作家になって記念すべき一冊目の本だもん。ぜひとも読んでもらいたくて。 純也さんは今、まだオーストラリアにいるそうです。あと二、三日したら帰国するって言ってましたけど。 日本とオーストラリアには時差は一時間くらいしかないけど、あっちは南半球なので季節が真逆だっていうのが面白いですね。「こっちは寒さが厳しいから、早く日本に帰りたいよ」って彼は言ってました。帰ってきたらきたで、こっちはまだ残暑が厳しいからあんまり過ごしやすくないけど。そういえば、オーストラリアってクリスマスシーズンは真夏だから、サンタクロースがトナカイの引く雪ゾリじゃなくてサーフボードに乗って登場するんだっけ。 付き合ってる以上、純也さんとはこれから先もケンカするかもしれないけど、今回のことを教訓にして早く仲直りできるようにしようと思います。どっちかが折れなきゃいけない時には、なるべくわたしが折れるようにしたい。純也さんだって、そんなに無茶なことを言わないと思うから。 もうすぐ、編集者の岡部さんがさっき話した短編集のゲラ稿を持ってくるはず。そしたら、いよいよ商業作家としてのお仕事が本格的に始まります。長編の方はデータを送ったきり、まだ連絡はありません。今ごろ出版会議の真っ只中ってところかな。どうか出版が決まりますように……! かしこ八月三十一日 いよいよ商業デビューする愛美』****(純也さんがこの手紙を読むのは日本に帰国してからだろうな……。どうか、あの小説の出版が決まりますように!) だってあれは愛美が初めて執筆に挑戦した長編小説で、本として世に出るために書いていたのだから。自分でも、もしかしたら大きな賞とか本屋大賞が取れるんじゃないかと思うほどよく書けたという自負がある。 ――ところが、世間はそう甘くなかった。
****『拝啓、あしながおじさん。 お元気ですか? わたしは今日も元気です。 今日、さやかちゃんと一緒に〈双葉寮〉に帰ってきました。明日から二学期が始まります。 今年の夏休みも、ワーカーホリックの中学校の宿題はバッチリ終わらせました! さやかちゃんも。 珠莉ちゃんはこの夏、モデルオーディションを何誌も受けて、ついにファッション誌の専属モデルに合格したそうです! わたしに続いて、珠莉ちゃんも夢を叶えたんだって思うと、わたし嬉しくて! 二学期には自分の進路を決めなきゃいけないから、多分一学期までより学校生活も忙しくなりそう。わたしは作家のお仕事もあるから、他の子たち以上に大変だと思う……! でも、わたしと珠莉ちゃんはもう進学する学部を決めてるからまだいい方かな。問題はさやかちゃん。まだ福祉学部にするか、教育学部にするかで迷ってるみたい。わたしは彼女がどっちを選んでも、全力で応援してあげたいと思ってます。 ところでおじさま、聞いて下さい。わたし今日、やっと純也さんと仲直りできたの! 実は夏の間ずっと、彼といつ仲直りしたらいいのかタイミングをうまく掴めずにいて、わたしも気にしてたの。 確かに七月のケンカでは、わたしにヒドいことをさんざん言った彼の方が大人げなくて悪かったけど、わたしもちょっと意固地になりすぎてたのかなって反省したの。「メッセージを既読スルーしてやる」とは思ってたけど、彼からはまったく連絡が来なくて、だからってわたしから連絡するのもなんかシャクで。 でも、やっぱり仲直りしたいなと思ってたタイミングで、おじさまにも話した彼からのあの上から目線のメッセージが来て。わたしはさやかちゃんのご実家に行くことにしたから、その時にも仲直りはできなくて。 で、今日思いきって彼にメッセージを送ってみたの。電話にしなかったのは、彼がオーストラリアにいるってメッセージを送ってきてたからっていうのと、電話で話すのは正直まだシャクだったっていうのもあって。そしたらすぐに既読がついて、彼から電話してきてくれたの。 純也さん、「大人げないのは自分の方だった。ごめん」ってわたしに謝ってくれました。彼はわたしの自立心とか向上心が本当は好きだけど、同時に自分に甘えてくれなくなるんじゃないかって、それを淋しく感じてたみたい。「男ってバカだろ?」って言って笑ってました。
「……純也さんは今、まだオーストラリアにいるの?」『うん。こっちは今、冬の終わりって感じかな。でも寒さが厳しくてさ、早く日本に帰りたいよ。そっちはまだ残暑が厳しいんだろうな』(あ、そっか。オーストラリアは南半球だから日本と季節が真逆になるんだっけ) 地球の反対側にあるオーストラリアは、日本と時差はほぼないに等しいけれど、その代わり季節が逆転しているのだと愛美は思い出した。クリスマスにサンタクロースが雪ゾリではなく、サーフボードに乗ってやってくるというのが有名なエピソードである。「そうなんだよね。明日から九月なのに、まだ真夏みたいに暑いの。純也さん、日本に帰ってきたら茹(ゆ)だっちゃいそう」『それは困るなぁ。でも、あと二、三日後には帰国する予定だから。仕事も立て込んでるみたいだしね。でも、どこかで予定を空けて愛美ちゃんに会いに行くよ』「うん! じゃあ、気をつけて帰ってきてね。わたしも明日からまた学校の勉強頑張る。あと、短編集のゲラのチェックもやらないといけないから、そっちも」『現役高校生作家も大変だな。でも、何事にも一生懸命な愛美ちゃんならどっちも頑張れるって、俺も信じてるよ。……夏休みの宿題はちゃんと終わった?』「大丈夫! 今年もちゃんと全部終わらせたから。――それじゃ、帰国したらまた連絡下さい」『分かった。じゃあまたね、愛美ちゃん。メッセージくれて嬉しかったよ』「うん」 ――愛美が電話を終えると、嬉しそうに笑うさやかと珠莉の顔がそこにはあった。二人は通話が終わるまでずっと、成り行きを見守ってくれていたようだ。「純也さんと無事に関係修復できてよかったじゃん、愛美」「お二人がギクシャクしてると、私たちも何だか落ち着かなかったのよねえ。だから、無事に仲直りして下さってよかったわ」「さやかちゃん、珠莉ちゃん、心配かけてごめんね。でも、わたしと純也さんはこれでもう大丈夫。見守ってくれてありがと」 思えば七月に彼とケンカをしてから、この二人の親友にもずいぶんヤキモキさせてしまっていた。彼女たちのためにも、こうして無事に彼との仲を修復できてよかったと愛美は思った。「――さて、一応形だけでも〝おじさま〟に報告しとかないとね」 あくまで愛美が「純也さんと〝あしながおじさん〟は別人」、そう思っているように彼には思わせておかなければ話がややこしくなる